最高のぜいたく 玉敷神社(騎西町)の藤 整理について 結婚35周年記念 田んぼから蛙が消えた! さびしい祭り・・・ここにも少子化の影響が!・・・ 午後のひととき 転院 |
(目次に戻る)
○玉敷神社(騎西町)の藤 2004年4月21日(水)
天気が良かったので和さんと二人で午前中玉敷神社(騎西町)の藤を見に行ってきた。
いつものように運転は和さんである。
家から玉敷神社まで車で30分足らずだった。
加須市から騎西に抜けて酒造「力士」の前を少し行くと直ぐにわかった。
神社の駐車場は狭い。
だが、時期が早いので見物の人が思ったより少なくゆうゆう止めることができた。
ゴールデンウイークには「藤まつり」が行われるそうなので、
駐車場がこれでは混雑するだろう。
後でホームページで調べて見ると町で臨時の駐車場を用意するらしい。
でも、果たして障害者用の駐車スペースまで用意してくれるのだろうか?
わりあい新しい境内のトイレには障害者用のトイレは整備されていなかった。
車椅子の障害者が不安なく見学できるように駐車スペースや障害者用のトイレまで
考えてもらえるとありがたいのだが・・・。
現状では障害者自身がその辺は考えて用意した方がいいだろうと思った。
「藤まつり」の期間は避けて、今日のようにまだあまり混まない平日に見学する
のが利口かも知れない。
欅ではなさそうだ。何という名前の木だろう?
入り口近くに太い木がどっしりと立っていて、暑い太陽の陽射しを遮ってくれる。
車椅子で藤棚のあるところに行ってみると、
あちらこちらに、
中学生らしい男女が、数人ずつばらけて、
絵を描いたり、思い思いに遊んでいる。
先生らしい人も見える。
藤の花は咲いていたがまだ咲き始めのようだ。
藤棚の花の丈も短い。
花の蜜を求めて蜂がたくさん飛んでいた。
公園の日陰の所では
町役場の職員だろうか?
青年たちが「藤まつり」の準備をしている。
休憩所とか、土産物を置くのだろう。
テントをいくつか張っていた。
家に帰ってから騎西町のホームページで
「開花情報」を見るとこの週末からが見頃だそうである。(写真:和さん撮影)
□騎西町のホームページ「開花情報」
http://www.town.kisai.saitama.jp/event/fuji-info/fuji-kaika-info.html
(目次に戻る)
○ 整理について 1月12日 月曜日
和さんに習って今年は身の回りを少し整理したいと思う。
金さんの場合、整理といっても身の回りの不要な物を捨てたり、
いろいろな契約を見直して特に必要でないものから契約を解除することから始めよう。
金さんは買った本を捨てるのが嫌いなため、本もどんどん増えて書棚だけでなく
書庫(簡易倉庫)もいっぱいになった。
これからは図書館をもう少し利用して、個人の本は減らすようにしたい。
嬉しいことに、長いこと待ちわびた町立の図書館の建設が進んでいる。
平成16年3月に開設予定なので、開設したらできるだけ利用するようにしたい。
金さんの場合、「インターネットライフ」でも整理できるものがたくさんある。
インターネットライフに便利なようにと、複数のプロバイダと契約しているが
これも見直したい。
ホームページの掲示板(BBS)も自分でできないからと、レンタル掲示板を複数契約しているので、
これも、契約期間をみながら見直すようにしたい。
生命保険も見直しできるかも知れない。
子供たちが成人したし、和さんも田園生活をしているのだから、
これからの夫婦の田舎暮らしと、息子のことを考えていけばいい。
金さん&和さんの“終のすみか”と“息子の結婚資金”などを考えれば良いだろう。
それほど予想外の経費も必要とは思えない。
生命保険もこの辺で一度見直しても良いように思う。
この他にも整理するものは実に多い。
夫婦共に60代になったのを機会にできるものから、順次実行していきたいと思う。
(目次に戻る)
結婚35周年記念
1968年11月11日に和さんと結婚してから今年で35周年を迎えた。
35年間を振り返るといろいろなことがあった。
病気のことだけを思い出しても、脳血管疾患のオンパレードといった経歴である。
1973年に30才で高血圧性脳症で入院。約2週間後職場に復帰。
1985年43才の時に1回目の脳出血で入院。約6ヶ月後職場に復帰。
1994年52才の時に2回目の脳出血で入院。約2年後復職。
この2回目の脳出血で四肢麻痺と言語障害の後遺症が残り車椅子の生活になった。
幸いなことに3回とも倒れて直ぐ救急車で病院に運ばれたから、
治療も早く命を取り留めて現在に至っている。
結婚したのが1968年で26才の時だから、
いま振り返ると、35年の結婚生活といっても5年弱しか健康に不安の無い時が
なかった計算になる。
それでも、夫婦仲が良く表立って波風も立たなかったのは和さんのおかげである。
和さんは、自分も東京まで遠距離通勤しながら、週末に家の農業の手伝いをする
生活を続けてきた。
一回目の脳出血で金さんが手伝えなくなってから18年になるが、
家のささやかな農業は和さんが支えてきたと言っても過言ではない。
そんな忙しい思いをしながら、夫婦は三人の子供たちにも恵まれた。
子供たちは三人とも成人して、既に上の二人の娘たちは結婚して家を出ている。
家に残った23才になる長男も、元気に勤めている。
子供たちも和さんを見て育ったから、三人とも家族思いのやさしい人間に育った。
金さんの中学時代の同級会に出席する機会に、結婚35周年記念の旅行をしようと
言うことになった。金さんも和さんも旅行が好きである。
金さんが車椅子の生活になってから、もっぱら和さんの運転でドライブ旅行が多い。
11月16日(日) 晴れ
夜の同級会に出る前に小諸の懐古園を見てから上山田温泉の清風園に向かうことにした。
懐古園には結婚する前に一度和さんと行ったことがある。
島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の歌碑の前で二人で撮った写真が残っているが、
久しぶりに行ってみると歌碑のある場所が昔と違うのではと思った。
和さんもそう思ったという。
懐古園は整備されているので車椅子でも楽に入れる。
障害者用のトイレも園内の新しいトイレに二カ所併設されていた。
懐古園というのは小諸城址に付けられた名称である。
日本の各地にある城跡には○○城址と名前が付いているのに、小諸城址は懐古園と
呼ばれている。これは信州人の智恵だろうか!
その夜は、上山田温泉の清風園で開かれた中学時代の同級会に和さんと二人で出た。
60才を過ぎると自分が病気になったり、親の介護をしていて出席できない人もいて
出席は先生も入れて25人と、そんなに参加者は多くはなかった。
二クラスで100人近くいたのだから、約25%である。
それでも、中学卒業以来始めての人もいて話しが盛り上がった。
6時から始まった会が9時半過ぎにお開きになるまでいたがあまり疲れなかった。
11月17日(月)も晴天である。折角紅葉の季節に信濃路を走るのだから
ゆっくりと景色を味わいながら走ろうと国道18号線をのんびり上田市まで戻り、
国道144号線に出て菅平に行ってみた。
信州の紅葉は盛りこそ過ぎているが全山燃えるようで見事である。
和さんは菅平がはじめてだという。
さすがに菅平に近づくと標高が高いので山の木々も冬支度である。
菅平の帰り道、真田町を通る真田東部線をドライブして東部町に出ることにした。
真田氏館跡がお屋敷公園になっているので、寄ってみた。
真田氏館は当初は真田信綱の為に建てられたが、信綱が長篠の戦いで戦死してから、
真田昌幸が上田城を築城する前に使用したともいわれている。
近くにりんごの大松農園があるのでリンゴを買ってきた。
・大松農園 http://www.dia.janis.or.jp/~oomatu
ここの「ふじ」も密がたくさん入っていて美味しかった。
東部町で国道18号線に出て軽井沢に向かう。
小諸を過ぎた辺りに水車小屋のある見慣れた蕎麦の店「やまへい」が見えた。
何年ぶりかも忘れるほど昔、上信越自動車道ができる前には良く寄った店である。
お蕎麦が美味しく、障害者用のトイレが出来ていたのが嬉しかった。
午後二時過ぎにこの日の宿の「軽井沢サロン」についた。
係の職員が表まで迎えに出てきた。
初めての利用だったが、フロントがある所はドームになっていて広い。
・・・つづく・・・
(目次に戻る)
田んぼから蛙が消えた! 2003.7.10
雨の日が多いというのに今年は蛙が鳴かない。
毎年、梅雨の時期になると周辺の田んぼで蛙の合唱が聞こえてにぎやかだった。
家の中にいても、雨が降り出すと決まって蛙が鳴き出すので、
雨の降り出したのがわかったものだ。
そんな蛙が鳴かなくなったので何故か寂しい。
いったい、蛙は何処へ行ったのだろう!
農家に人手が足りないので除草剤を使いすぎる
ためだろうか?
和さんに聞いてみると、どうもそういう単純な話では
ないらしい。
最近、この辺りでも圃場(ほじょう)の整備が進み、
田んぼの水入れもパイプラインの蛇口を捻れば
24時間いつでも入れることができるという。
人間には大変便利で楽になったが、反面いつでも
流れている小川や水路が無くなり草も生い茂らなく
なって、オタマジャクシやメダカも住めなくなっている
という。
そういう自然でない所に蛙や小魚がどうして
生きられるだろう。
少し前にテレビでもこの問題が取り上げられていたという。
ゆるやかにではあるが確実に進んでいる自然体系の破壊には、これ以外にもいろいろな要素が重なり合っているようだ。
ただ心配することは、小魚や蛙などの小動物が生きられないような自然にすると
やがて自然界の生き物である人間にも、何らかの影響があることは必至であることだ。
自然からの逆襲がある前に、
何とかするのが人間の知恵だろうと思った。
(目次に戻る)
さびしい祭り・・・ここにも少子化の影響が!・・・ 2003.7. 5
“天王様”がわが家にやってきたので車椅子で庭に出てみた。
久しぶりに見る“天王様”だが、御輿(みこし)をリヤカーに乗せて
引いている子供たちがやけに少ない。
数えると六人である。一緒に回る親たちも同じぐらいだ。
うちの三人の子供たちが小学生の頃二十人位いたような気がするが、
こんなに少なくなったのかと驚いた。
少子化が都市だけでなく地方でも進んでいることを実感した。
和さんの話では、大字(おおあざ)で三つある地区のうち、
うちの地区では小学生が一人もいないという。
役場や農協(JA )からの全戸配布や回覧板などを持って行くと、
どこの家に行っても、七十過ぎの老人が多いらしい。
「そのうち どうなるんだろうね!」と和さんが心配して言う。
※天王様(子供):大利根町ホームページの ふる里まつり情報 より引用
|
御輿をリヤカーに乗せて大字の全部の家々を回る。
各戸からいただくお賽銭を子供たちが分ける風習になっている。
和さんに聞くと、昔は子供が大勢いたので、
分け前も少なかったらしい。
それよりも、子供たちは、回って各戸でふるまわれるもの(枇杷やスイカなど)を
喜んだものだという。
いまどきの子供たちは何を嬉しがるのであろうか?
金さんは、まだ車椅子が珍しい子供もいるだろうと思い、
みんなと一緒に写真を撮った。
デジカメなので、家で焼きまして子供たちに配ろうと思う。
(目次に戻る)
午後のひととき 2003.7. 4
蒸し暑いのでお昼が済んでからベッドでしばらく昼寝をした。
ぐっすりとはいかなかったが、少しまどろんだようだ。疲れも取れたし眠気も覚めて気持ちがいい。
時計を見ると二時半である。テレビをつけるとNHKで金曜時代劇「春が来た」の再放送をやっていた。
前にも見たことがあるので筋書きが少しわかる。
女好きで独り者の元同心の太郎兵衛を仲代達矢が、おっとりしていて50過ぎまで女を知らない
元忍びの者の次郎兵衛役を西田敏行が演じていた。
初老とは思えないような凄まじい剣と忍びの技で悪に猛然と立ち向っていくかと思うと、
二人が心を奪われる女(お美代:南野陽子)(おりせ:萬田久子)との恋と別れ(死)がある。
自分と同世代の男の物語だと思うと、可笑しいというよりもなぜか哀しかった。
(目次に戻る)
転院 2003.6.30
今日も暑い。テレビのニュースで梅雨の中休みだと言っていた。
たいしてお腹も空いていなかったが、菜園から戻った和さんがうどんのお昼を作ってくれたので有り難くいただく。
夏はうどんや蕎麦がいい。
食べ始めてから血圧を計っていないことに気が付いた。和さんもうっかりしていたらしい。
病院の医師は「それほど血圧を気にしなくてもいいですよ」と言っていたが、油断は禁物と食事のたびに計るようにしているので、食べてから計ることにする。
食後直ぐに計ると上が136下が86であった。まずまずの数字である。
6月から通院する病院を済生会栗橋病院に変わった。この病院には2001年2月に帯状疱疹になったとき入院したことがある。その時は皮膚科だった。
家から車で20分位と近いので 「仕事を辞めたら、いつかこの病院に転院したい」とその時思った。
2年前(2001年)に自分が東京都を退職してからも、隔月で都立大塚病院まで通っていた。
ところが、和さんが今年3月で国家公務員を辞めたのと、都立大塚病院の金さんの主治医が他の病院に転勤したので、良い機会だと思った。それで6月から変わったのである。
前の病院の医師が紹介状を書いてくれた。
済生会栗橋病院は、 地域の住民に高度医療を提供する東京女子医科大学特定関連の公的病院だという。
長い老後をここで暮らしていくからには、かかりつけの病院が家に近いところにあるのが心強いだろうと思う。
転院した日に済生会栗橋病院の医師に相談して薬を変えてもらった。
都立大塚病院で薬を変えてもらう話をしているうちに転院が決まったので、新しい病院の医師に相談することになっていた。今度は朝1回4錠だけ飲むだけになった。毎日3回飲んでいた頃に較べると随分楽である。
薬の副作用がないか?身体に合っているか?などを見るために、最初は2週間分の処方箋を書いてくれた。2週間後にもう一度もう一度様子を聞くという。
2週間後(6月20日)に血圧の記録をもって行くと、T医師は「身体に合うようなのでこれにしましょう」といった。
血圧が130台〜80台でほぼ安定している。
前に出ていた歯肉増殖もみられない。
かゆみなどのアレルギーの問題もないようだ。
6月の転院は、今のところ成功だったようである。
(目次に戻る)