・・・1999年 9月・・・
久しぶりの長野は私の知っている長野ではなかった。
先ず驚いたのは高速道路だった。
高速道路は山裾を長野市に向かって真っ直ぐに伸びていた。
小諸も上田も街並みが遙か彼方にあった。
トンネルが幾つもあり、中には4000mを超える長いトンネルもあった。
途中の懐かしい街並みを見ることもなく車はいつの間にか長野に着いていた。
長野駅前の「メトロポリタン長野」ホテルに向かう途中で驚いた。
あの善光寺を連想させる「長野駅」が無くなっていた。
文化のかけらもないありきたりのビルがそこにあった。
どうやらそれが新しい長野駅らしかった。
古い文化的な建物より近代的なビルを選んだのだろう。
オリンピックがこの街を大きく変えたのは間違いなかった。
「メトロポリタン長野」ホテルもその一つだった。駅前にホテルはあった。
このホテルの場所には昔何があったのだろう。
・・・・・・ 一生懸命思い出そうとしたが 思い出せない。
だが、このホテルにはハンデキャップルームがあった。
車椅子のまま泊まれる宿であった。だから、私たちはこのホテルを選んだのだった。
ホテルで、夜高校の同窓生のOさんにお会いした。
学年が違うので在学時代は話す機会がなかったから初対面であった。
それがインターネットの交流でMさんの紹介でメールのやりとりをするうち同窓生だとわかったのである。
Oさんも障害を持っており、ホテルにはタクシーでやってきた。
初対面だったが杖をついてタクシーを降りてきたOさんは直ぐにわかった。
旧知の間柄のように私たちは挨拶を交わし、それから妻と三人で食事をしながら話がはずんだ。
翌日はあいにく雨である。九時過ぎホテルを出て郷里の墓参りに向かった。
郷里は長野から20キロほどの山間の町にある。国道からはずれ細い道をしばらく行くと
懐かしい小さな家並みが続いている。
いつもは人通りのない所だが珍しく雨の中をお年寄りが何人も農協の方に歩いている。
看板を見るとお年寄りの健康診断のようだった。
知っている顔もあったが、何年ぶりの顔であるどの顔も老いが更に進んでいるように見えた。
最初に山裾にある寺に行った。雨が降っているので車椅子を降ろせない。
墓に登る石段の近くに車を停めて、妻が代わって寺と墓に行ってきた。
「久しぶりでわかるかどうか心配したけど直ぐにわかったわ」と妻が言った。
墓に登る石段も最近付けたらしい。
杉の木が切られて墓地が見違えるように明るくなっていた。
寺では住職さんが留守で、先代の住職さんの奥さんが留守番をしていたと妻が言った。
車を出すときに遠く寺の入口でその奥さんが手を振っているのが見えた。
私も車の窓から手を振って答えた。
その後で親戚・知人の所に三軒寄ったがいずれも私は車の中で失礼した。
この町のこの辺だけは時間が止まっているようで昔ながらの家並みも人も懐かしかった。
長野に戻り「かんぽの宿」のある妙高に向かった。
トンネルだらけの高速道路を一時間程走り、インターから白樺林を十分ほどで「かんぽの宿」に着いた。
車椅子で入口を入ろうとするとおじいさんが 「良くいらっしゃいました」とていねいに声をかけてくれたので、
宿の関係者かと思ったが「お客さんらしいよ」 と妻が言ったのでまた吃驚した。
雨で妙高の山は見えなかったが、「かんぽの宿」はハンデキャップルームが広くて使いやすかった。
夜食に頼んだ「かんぽの宿」お奨めの「馬さし」は、色も良く柔らくて美味しかった。
妻から1杯分けてもらった新潟の冷酒もまた美味しかった。季節を選んでまたこようと思った。