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浅間山
今年の信州旅行は収穫の多い旅行だった。
久しぶりに浅間山が見えた。 浅間は見るだけで登ったことのない山だが、幾つになってもなつかしい山である。
若い頃、汽車で故郷に帰るときに
碓氷峠を越えて 浅間が見えるとホッとした。
あいにくの天候で浅間が見えないときなど、
信州へ帰った気がしないこともあった。
その浅間を、ここ何年か信州に帰っているのだが、
見ていない。
今年こそは!と思っていたので、見えたときにはホッとした。
故郷へ帰ってきたな! と 思った。
珍しく煙は上がっていない。
おだやかな初秋の景色が 車窓を自然の額縁にしていた。
(高速道路で車窓から見た浅間山)
信州新町
長野市内から金さんの故郷の信州新町までは20キロほどである。
北アルプスから日本海に流れている信濃川が、長野市で千曲川と犀川に分かれるので、
犀川に沿って上流へ国道19号線を30分ほど走る。
犀川にはダムが幾つもあり、いつも水がいっぱいで景色が素晴らしい。
だから、この川沿いの道を流れに沿って上流に走るのが好きだ。
特に秋の紅葉が素晴らしいのだが、9月下旬ではまだ紅葉には早いようだった。
この道も1998年の長野冬季五輪の時に、トンネルを掘ったり、橋を架け替えたりしたので
ずいぶん走りやすくなった。ただ、昔と違ってバスが少ないのか、すれ違うのは乗用車やトラックが多い。
信州新町の入り口に近い道の駅「地場産業開発センター」に寄って、名物のジンギスカンのパックと地酒を家に送ってもらった。
信州新町の町並みを抜けて犀川を渡り国道から田舎道に入る。なだらかな坂道を上ると牧野島である。
※ 上の写真は信州新町のホームページからお借りしました。
流れているのが犀川。 雪のある山並みが北アルプス連峰
牧野島城趾
金さんが中学生まで住んでいた牧野島という集落は、当時更級郡牧郷村(さらしなぐんまきさとむら)にあった。
今は合併して上水内郡信州新町(かみみのちぐんしんしゅうしんまち)にある。
子供の頃はそれほど意識していなかったが、牧野島というのは歴史のある集落である。
当時、戸数が百戸に満たない牧野島に何故牧野島城があったのか不思議にも思わなかったが、
今になって、ホームページで牧野島城を検索してみると、戦国時代のこの辺のことがいろいろわかる。
牧野島城は、武田信玄の家臣で「不死身の馬場美濃」の異名を持つ、馬場美濃守信春が築いた城である。
武田信玄が北信濃の備えと上杉勢の牽制のために築かせたという。
「永禄5(1562)年には、信玄の命を受けて信濃更級郡に牧野島城を築いてその一帯を守る。」 とある。
城趾は、犀川を望む高台に位置していて、蛇行する犀川の流れを利用した自然の要塞の地に築城された
ことがわかる。
その後元和2年(1616年)廃城となり3年後の火災ですべて焼失したといわれるため、城は残っていない。
本丸、二の丸、空堀などの跡が戦国時代の名残をわずかに残している。
※ 上の写真の犀川がカーブしている崖の上が平らになっていて牧野島城跡がある。
下の地図でもわかるように犀川はこの先で大きく蛇行している。
昔は犀川が自然の堀の役割を果たしていたと思われるが、川の水量は昔と比べて少ないように見える。
※ 牧野島城跡 「長野県史跡」指定されている。(昭和四十一年三月史跡指定)
「この城は、永禄九年(1566)武田信玄が馬場信房(美濃守)に築かせ、越後に対する警衛と
更級水内山部の鎮撫にあてた城である。」
※ 里穂刈から犀川を渡り、下市場から犀峡高校を左に見て、牧野島城の城跡を右手に見て牧野島へ通じる
バスが通る道路がある。(ピンク色)
興禅寺
金さんの実家中島家の菩提寺は興禅寺という。
興禅寺は信州の名刹であり南朝にゆかりの深い寺であるという。
再建された本堂の入り口に菊の紋章があるので住職にたずねたことがある。
住職は、文政4年(1821年)嵯峨御所より「神峯名山興禅禅寺」の額を賜り、
菊紋の使用を許されているのだという。
※ 今度の父母のお墓参りの際、興禅寺に寄って「神峯山興禅寺史:平成九年三月三十一日刊行」をいただいた。
読んでみると、正和二年(1313年)の開山以来の歴史が載っていて、馬場信房とのかかわり、
嵯峨御所とのかかわりなど興味深い内容がが載っていた。
実家(中島家)の跡地
金さんの実家は誰も住まなくなってから取り壊されている。
その跡地に、甥(おい)が別荘のようなものを建てる話が具体化しているので、
故郷に帰ったついでに跡地をよく見てこようと思った。
跡地には、誰が種をまいてくれたのか花が咲いている。
庭にはなつかしいナツメの枝が実を付けて垂れ下がっていた。
西の山並みの間から見えるはずの鹿島槍は、雲に隠れていて見えない。
幼なじみ!
久しぶりに、中学校の同窓生(下級生)吉田京子ちゃんに会ってきた。
彼女は長野市でフリーライターとして活躍しているが長い間会っていない。
今年の夏、『脳出血から二度生還して』を、彼女に贈ったのを読んで、
「本をありがとう!」というメールをもらった。
それから間もない ある日、何気なく読売新聞の投稿欄を見ていて驚いた。
「ネットで広がる心の交流を実感 フリーライター吉田京子」という投稿が載っているではないか。
急いで読んでみると、その投稿に自分のことも書かれている。
投稿の終わりの部分に「本のお礼をメールで送ったところ、右手の中指一本でキーを打つという彼が、メールで返事をくれた。
「パソコンとインターネットは、心と体のリハビリテーションにいいですよ」とあった。ネットを通じて、彼のように様々な人と交流ができる
ことを知らされ、パソコンを買って良かったと初めて思えた。」 と書いてあった。
『脳出血から二度生還して』を贈ったことが契機になり、幼なじみの京子ちゃんとその後メールの交流が続いている。
帰省の折に、金さんの実家から近い京子ちゃんの実家に寄って彼女と家族に会う約束をしてあった。
九十歳になるという彼女のおかあさんも元気で、 久しぶりだったにもかかわらず話がはずんで嬉しかった。
親せきのおばあちゃん
親せきに寄って、二十年も会っていないおばあちゃんにも会ってきた。
その親せきは、かなり標高の高い所にあるので、北アルプス連峰がよく見えるはずだったが、
あいにく雲に隠れていて見えなかった。
北アルプスの山は、少年時代に実家からも山並みの間から鹿島槍などが見えた。
少し高いところの山や畑に行けば、槍ヶ岳などの北アルプス連峰も良く見えたので、
標高の高い集落にある親せきから、雄大な北アルプスの連峰が見えるに違いないと
思っていただけに、見えないので残念だった。
坂の多いこの土地で一人暮らしをしているというおばあちゃんは、八十台半ばになるというのに元気だった。
十数年前にきたときに、ちょうど留守をしていて会えなかったのを残念がって、今度来たらぜひ寄ってくれといわれていた。
おばあちゃんの長女は金さんの小中学校の同級生である。
彼女は同じ信州新町の山地にある農家に嫁いでいた。
彼女には昨年の同級会で会っていた。
電話で久しぶりにおばあちゃんに会いに行くことを話してあったので、その日彼女も実家の母の所へ帰っていた。
おばあちゃんが朝早く起きて用意してくれたという、赤飯、煮物、栗などの手料理がとてもおいしかった。
妻と息子も、おいしいおいしいとお代わりしていた。
おばあちゃんが自分で漬けた特性の奈良漬けもおいしかった。
それを 帰りに一樽おみやげに貰ってきた。
ふるさとの山並み
ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな (石川啄木) |
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