8月21日(日)晴時々曇り |
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朝五時ログハウスの西側の窓を開けると犀川を挟んで大原とそこに連なる山々が見える。 私はその景色が好きだ。 よく晴れた日には山の間に北アルプスの鹿島槍が見えるのだが今度の旅行ではあいにく見えない。 ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/ うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや/ ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ ・・「小景異情」より・・ これは室生犀星の詩集『叙情小曲集』にふくまれる有名な詩である。私生児として生まれた室生犀星(1889〜1962)は、7歳の時に犀川のほとりの雨宝院(うほういん)という寺に養子として預けられたという。故郷への思いと少年期の哀愁が作品ににじみ出ているこの作品は青年期の金さんの心を揺さぶった。 奇しくも金さんの故郷長野県信州新町には、室生犀星の故郷石川県金沢市に流れる犀川と同じ名前の犀川が流れている。犀川は子供の頃よく遊んだ川である。 犀川には思い出がある。 金さんの子供の頃(1950年代)にはまだ学校にプールはなかった。 夏休みになると中学生も小学生もどこの家の子供たちも殆ど例外なく遊び場である犀川に下りて行って遊んだ。その頃の犀川は水量も多くこの辺りには浅瀬は少なかったので、子供たちが遊べるところは限られていた。 川遊びでは泳ぎを教えてくれる上級生がいたわけではないので、一夏の夏休みの間に泳げるようになる子供は少なかった。それでも、子供たちは伏せ面や犬かきから初めて、二。三年もすると何とか水に浮くようになっていった。 ある夏のこと、トラコーマに感染して皆と同じ場所で遊べなくなった。仕方がないので皆が遊ぶ下流のやや急流で深いところで遊んでいた。そして、そこで泳ぎ危うく溺れそうになった。ばたばたしながら無我夢中でつかまったのが川端に長い枝の出ていた柳である。あのときに溺れていたらと時々思い出す。
10時頃ログハウスの戸締まりをしていると、近くの親せきのかあちゃんが裏の畑から完熟のトマトをたくさん持ってきてくれた。自動車に荷物を積んでいると、近くの家のおばあちゃんは野菜の入った袋を持ってくれたので、ここで別れの挨拶をした。 先に次女夫婦の自動車を見送った後で 「金さんの出た小学校を見ていく?」と和さんに聞くと 「うん、見る見る!」と言うので、 自動車で10分位の所にある小学校の跡に行ってみた。 小学校の跡には、昔一階は小学校、二階は中学校と共同で使った校舎は取り壊されて、体育館兼講堂として使っていた建物だけが残っていた。 校舎があったところに「牧郷小学校跡」というまだ新しい石碑が建っていた。 金さんが通っていた頃小学校に三つ分校があった。中学生の途中に分村合併があり、一部の同級生が別の中学校に転校していった。その後更に町村合併があり、今では当時の本校も廃校になっている。 11時半ごろ故郷の信州新町を後にし、埼玉の家には午後4時頃に着いた。 蝉時雨が賑やかだった。 (目次に戻る) |
熟年夫婦の田園生活 | 車椅子の視線から |